縄文 ファッションの世界  第一部  衣装・櫛・珠


縄文のファッションというと、どうしても、有名な耳飾等の装飾品に目がゆくだろう。

然し、先ず、面白いのは衣料ではないか。
例によって、縄文人は写実的なものは残しておらず、多分に抽象化、デフォルメされていると考えられるものの、各種の
土偶から、高度なデザインの衣服があったことが想像される。


先ず、なんといっても、注目すべきは遮光器土偶だろう。

遮光器土器というと極端にデフォルメされた顔、そして王冠といわれる髷ばかりに目が行くが、実は、まとっている衣装が
面白い。
下の一、二番目は、最盛期のもの。宇宙服だと言われたデザイン。

晩期になると崩れてくるものの、この凝ったデザインの衣装が遮光器土偶の特徴。
勿論、一般、生活用では無く、祭祀用の衣類を写したものである事、それも極めて、重要な祭祀に際してのものであるこ
とは明らかだろう。
勿論、身体的な特徴から特徴から、女性、即ち、巫女-カンナギ。




環境条件からみてみよう。

ウルム氷期の最盛期、20000年前、海面の高さは現在より100〜130m低かった。10200年前、ウルム氷期、晩氷期に
おいても、日本列島の気温は現在の−5℃、南と北で、未だ大陸とつながっていた。



約二万年前、最終氷河期、最寒冷期の植生図


急激な気温の上昇で、10000年前(縄文草創期)には、日本列島分離。
それでも、津軽海峡なんて、かなり後まで狭かったらしい。アイヌの古老は、津軽海峡を「しょっぱい河」と呼んでいた。
太古の記憶が残っていた?

さて、さらに気温は上昇し、5000年前最高温、+5℃、所謂、縄文海進で、現在の海面+5m。
この時期は、縄文早期から前期の始まりに相当。これより関東以北を中心に縄文文化発展。
残念ながら、九州の文化は6300年前の鬼界カルデイラ・大爆発で一旦、壊滅している。

その後、気温は低下し、縄文中期は、ほぼ、現在の気温、後期は若干下がったものの(−1℃)、晩期にはは上昇し現
在に至る。

遮光器土偶の作られた時期は、おおむね現在の気温。この時期、既に降雪もあったといわれ、冬季、北日本では、防
寒性の衣料が必要だったはず。
遮光器土偶の何となくぼってりと膨らんだ衣装は、こういった寒冷地用のもの?

数少ない遺物から、衣料用として、麻やカラムシ、アカソ、イラクサ等の繊維が使われ、アンギンという織物が製造されて
いたことがわかっている。また、糸、紐、縄が用途に応じて製造され、骨針や髭がそれるような鋭利な黒曜石の石器が使
われていた事から相当複雑な衣料が作られていたと想像される。

遮光器土偶の装束に見られる呪術的な模様も単なる土偶としてのデザインではなく、カンナギの実際の衣装を写した物
と考えたい。


晩期、北海道、著保内遺跡出土の土偶は、より写実的な形態を示す。



さて、刺し子だとする突刺文をまとった一連の土偶。
これはむしろ、毛皮の外衣を表しているのではないか。






さて、いよいよ、装飾品。

先ず、漆塗りの櫛。縄文の女性の高く結い上げた髷を飾ったもの。
これは、矢張りすごい。
それに、時期や場所が違っても同じようなデザイン、同じような技術。技術が伝播したのか製品が流通したのか。

漆塗りの技術は、起源を外に求めるのが大好きな学者連中は、ご多分に漏れず、中国から渡来したものと決め付けてい
たが、現在は、縄文の方が古くー約6500年前ー、且つ、技術レベルも格段に優れていたと変わった。


一番左は、縄文前期、福井県鳥浜貝塚出土のもの。ヤブツバキの木を石器で削り出し、漆をかけた見事なもの。



次は、美しいものを。

後年、邪馬台国の壱与が洛陽に送った使節に持参させた「青大勾珠」、即ち、日本特産のヒスイの玉。



ヒスイの産地は、なんといっても新潟県布川流域や姫川、糸魚川市小滝川などが有名だが、他にも、富山、福島、埼
玉、山形、鳥取。


勾玉


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