姜尚中、「ナショナリズムの克服」など 尊敬する友人から、面白いよと勧められた「姜尚中」。 (姜尚中:Kang sang-jung) 「姜尚中」は、最近、しばしば、メディアに登場する。NHK・TVにまで出演する、もてもての、TVタレント?
(彼は、「姜尚中に聞いてみた」の「はじめに」の中で誇らしげにその理由を語っている。) その、押し殺した、もの柔らかな口調、粘っこい話し方、努力しないと相手の目を見て話せないような態度、それでいて、いつ爆発するかと思われるような眼、TVで見る「姜尚中」には、どうも、生理的な嫌悪感を感じて仕舞った。 それに、「姜尚中」は、あまりにも同じテーマの本を何冊も書き過ぎている。 ベストセラー・ライター? と言うことで、何を読みゃ良いんじゃと言うことになる。 そこで、入門用にと紹介されたのが「ナショナリズムの克服」。 で、とりあえず読み始めたけれど、「在日韓国人二世」を意識しすぎた恨み節が鼻について、斜め読みをしてしまった。 その後、ちょっと気になることがあって、読み返してみると、この本は、実に面白い。 何が面白いって。 この本は、対談形式だが、いわば、森巣博による「姜尚中」の解説書、+森巣博のほら話なんだが、 森巣博を含めて、「姜尚中」的な人たち、即ち、実務を知らない、本と討論と思索のみの架空の世界に生きている人達の限界がはっきりとわかる内容だ。 著書だと難解な言葉使いで、あたかも深遠な思想のごとく装えるところが、こういう形式だと簡単に化けの皮がはがれてしまう。 ということで、先ず、この「ナショナリズムの克服」を俎上に。 確かに、「姜尚中」は、よく勉強している。 然し、これは、当たり前のこと。 我々、技術屋だって、少なくとも自分のテリトリーで知らないことがあっては、商売にならないんだから。 むしろ、森巣博という、何処の馬の骨とも知らぬ、わけの判らぬオッサンがよく勉強しているのにはびっくり。 時々は、「姜尚中」の日本語の誤りを直してくれたりもする。 さて、 第一章 「日本ナショナリズム小史」から、 全般に、状況説明やいろんな人のコメントなんかは、流石に、よく整理されている。 然し、一旦、分析・解析・見解になると極端な見当違い、甘いところが出てくる。 御説、ごもっとものところは、省いて、例えば、下記の下り(47頁)、 姜:日本は、東南アジアに対する賠償と言う形で、経済的に進出していく可能性をアメリカに与えられたんです。テクノロジーや生産力が優れているから、戦後の日本は経済大国になったと言うストーリーが、昭和天皇が死んだ時に作られたが、それはうそだと思うのです。 森巣:大嘘です。 *冗談じゃない。とんでもない、誤った分析だ。 先ず、敗戦国と言う極限状況下、歴史的にも稀有と言われる外交上の成功をもたらし、その後の回復発展の根幹を作った日本の政治力はすごかった(世界の動向とアメリカの指向するところを読みきった)。 然し、そこで出来上がった基盤の上で、経済的な大成功を収められたのは、一に、日本人の技術開発力だ。 これがなくて、何ができたと言うんだろうか。 私事だがこういうことがあった。 昭和40年当時、勤務地の工場・研究所で、近くの米軍基地駐留の米国人を英会話の教師に雇っていた。 ある時、この米国人が「日本は負けたじゃないか」的な発言をした。 その時、その教室にいた十数名の我々の仲間が、異口同音に「見ていろ。10年後、少なくとも20年後には、必ず、お前達、アメリカを叩き潰してやる。今度は絶対に。」と言うことになった。 今迄、そんなことを話し合ったことがない技術屋連中だったが、図らずも、全員、同じ感覚を持っていたことがわかった。 その後、不肖、小生の開発した技術によって、米国の二社の有名化学会社に、当該事業からの撤退をよぎなくさせ、全世界をも圧倒した(余談だが、この一事を持ってもわかるように、ある時期から、米国は、宇宙・軍事産業領域以外の、一般産業分野での競争力は三流国に成り下がって仕舞った。ために、いち早く戦略を転換し、金融資本主義を武器として、世界制覇に躍起になっている)。 要するに、「姜尚中」や森巣博ごときは、全く、知らない世界の話。 自分が知らない世界の情報を持たずに、解析し判断すること自体の、危険性。 完全な判断の誤りを生じ、方向性を誤ってしまう恐ろしさ。 こういった「データの欠如」に起因する未熟な解析、それに起因する判断の誤り・方向ずけの誤りが、人を誤らせ、国を誤らせ、ひいては人類を誤った方向に導いてしまうことにもなる。恐ろしい。 SONYだって、技術開発を二の次にし、加えて、開発の方向性を誤ったために、結局、韓国起業ごときと提携せざるを得なくなった ちょっと脱線。 SONYは、ベーターマックスの大失敗で、マーケッティングの重要性を知った。 然し、マーケッティングを過剰に重要視した為に、その後の開発の方向性を誤ってしまった(もっとも、大賀と言う畑違いの男を社長にしたのも運の尽きだったが)。 SONYの誤りの基点になったのが、ウォークマン。ウォークマンは、SONYでなくちゃ出来ないものではなかったが、この商品の商業的な大成功がその後の開発の潮流を決めた。 トリニトロンを開発し世界に冠たるものだったSONY。その映像分野での惨憺たる現状。
森巣: 経済的成功とともに、日本特殊論、日本人論の登場だ。 姜: 日本の文化や伝統が、日本をここまで引き上げた要因なんだと言う幻想の登場です。世界は、日本をモデルにしているのだと言う言説出てきて、それは文化ナショナリズムとしては成功したのだと思います。(47頁) *これらの言説を唱えた輩も、「姜尚中」や森巣と同じ類の誤謬を犯している。
姜: グローバル化する世界のスタンダードやルールを有利に作ってゆくためには、国家の介入が不可欠。だから、単純に国家が後退して、代わりに、市場経済を任された国際的な機関が、いろんな調整をしてゆくことがグローバル化なんだという認識は、根本的に間違いだと思う。(58頁) というような意見を吐きながら、 姜: あまり詳しくは知らないのですが、一体、何処で国際会計基準というものが出来たのでしょうか。例えば、日本金融機関が国際業務に当たるとき自己資本比率が八パーセント以上出なければいけないのでしょう。誰がそれを決定したか。 森巣:それは、スイスにある世界決済銀行。 姜: そのスタンダードをつくる場合には、国家を代表する政府の色々な力が、かなり強く働いたりするのではないかと思う。グローバルスタンダードのルールが、何処でどんな風に作られていって、そこに、IMFや世界銀行はどういう風に絡み合っているのか。世銀やIMFやWTOは、アメリカやヨーロッパや日本に、どういう風にコミットしたり、あるいは国際官僚がどういう風に動いているのか。僕は、詳しくは知らないけれど、−−−−(198頁) *「詳しくは知らないけれど」などと、恥ずかしげもなく言う。全く、あきれた話。 すべての根幹である金融機構のことを熟知していなくて、何が考察できると言うのか。 こういう無知蒙昧な人間が臆面もなく、単なる憶測でコミットする。当然、内容は妄想の域。 これで、万が一にも、誰かが影響を受けるとすれば、恐ろしいことだ。 姜: 知の世界における日米談合構造も、八〇年台くらいから少しずつ限界が見え始めてきた。ーーーー 中略 姜: 現在では、日本とアメリカの知的交流のパイプは、かなり多様化してきた。グローバリズム時代の知のあり方は、国と国の談合的なものではなく、むしろ夫々のコンテキストのなかで、同時多発的に批判するようなことなんじゃないかと思います。それが実現できれば、日米関係も変わりうる。(79頁) * まず、現在までの日米関係−−談合と言っている−−の何処が悪いのか?日本、或いは米国、若しくはそれ以外の国や人にとって、なにか悪影響が出ているのか? 「日米関係が変わりうる」と言っているが、どの様な形に変わったらよいと思っているのか?そしてそのメリットは? 結局のところ何をどうしたいのか全く見えない−−「姜尚中」自身が、全くわかっていないから仕方ない等とといっていられるのだろうか? 森巣博オッチャンは、「国家は消滅する」などとほざいているが、こりゃ、「自称国際ばくち打ち」のたわ言と思っておきゃ良いのだろう。 森巣: そうですね。まず、ちゃんと戦争責任を謝罪し保障せにゃ。被害者への謝罪も保障もサボって、加害者だけが勝手に癒されていいはずがない。 *第二次大戦以降、日本が米国の侵略戦争に経済的に加担し、実質的に戦争を行ってきたことに対してはどう考えるのだ。めんどくさい話は、避けて通るのが、こいつらの常道。 第二章は、「経済ナショナリズム体制下の、姜尚中の個人的体験」とのタイトルで、これは、アイデンティティ論で味付けした「姜尚中」の恨み節。 姜: 韓国に渡って一ヶ月ほどたったある日、−−−−、視界の彼方で、日本で見るのと少しも変わらない夕日が、ゆっくりと落ちてゆく。そのときに、「ああ、そんなに悩む必要はないんじゃないか。この夕焼けは日本でも見ているし、ソウルでも見ている。人はいろんなところで生きてゆけるのだ」と言う思いが、突如、湧き出してきた。その後、日本に戻ってきた時には、僕は、かなりナショナリスティックになっていました(95頁)。 * 何だかんだと理屈をコネまくっていても、自分自身、結局、ごく情緒的なことに、左右されてしまうことを認めている。 森巣: 依然としてわからないのが、「日本」とは、「日本人」とは、「国体」とはなにか?(82頁) 森巣: ここで私が言いたいのは、アイデンティティではなくて「セルフフード」:selfhoodだと言うことです(103頁)。 森巣: 集団レベルのアイデンティティ等は存在しない。ナショナル・アイデンティティというものは存在し得ない。在日と言うアイデンティティにしても、それは共同幻想ではないか(104頁)。 *とまで言われながら、なお、 姜: 国家という共同性に対して、国民が忠誠心や生命を捧げたりするのは、一体、何故なのか。それはもう少し、議論していかねばならぬと思うのです(105頁)。 *等と言う。まだ、わからないのか?。 じゃ、人は、何故、宗教などというものを信じるのか?
第三章、「グローバリズムの渚における、森巣博の個人的体験」 *「故郷とは何か」とか「アイデンティティからの自由、アイデンティティへの自由」だとか、くそみたいなことをゴタゴタ言っているだけ。語るべきことは何もない。 第四章、「民族概念を如何に克服するか」 森巣:−−−辞典、百花事典での民族の定義が、何度読んでも、わからない。 姜: 確かにわかりにくい。(178頁) *「わかりにくい」とは、「表現が悪い為に、簡単には、わからない」と言う時に使う言葉。わかっていないときは、日本語では、「わからない」と言うのが正しい。 森巣: 民族概念とは、「西欧近代」の発明物。「民族」は、文化、文明、国民、国家、人種などと同様に、早くても十八世紀の後半に、社会分析の道具として立ち上げられたもの。 森巣: 1960年代の構造主義者、ポスト構造主義者たち、構築主義者達の研究によって、文化、文明、国民、国家、人種等の言葉群の持つ犯罪性が、次々に暴かれてきた。(179頁) 姜: 「われわれ us」と「かれら them」を差別する言葉で、それらの言葉を使用するうちに、いつの間にか、「われわれ」=西洋人が、「かれら」=西洋人以外の野蛮人を、抑圧・収奪するのに都合が良い理屈が、無意識的、自動的に、作り上げられていく。 森巣: 民族などという概念は、構造主義者以降の学者達が鮮やかに解体したように、成立しようがない。要は、抑制と収奪の理念によって立ち上げられた、差異の政治学。「われわれ」と「かれら」の間に境界線を引き、「民族的」抑圧や収奪を容易にする。「民族」は、まさに、西洋近代が生んだ植民地主義・帝国主義の理論であり、概念。 森巣: 「西欧近代」が創造・捏造した概念の中でも、とりわけ、「民族」は、人間社会を食い尽くすタチの悪い病気。19世紀と20世紀の大量虐殺は、民族概念に直接的、間接的に影響されて起こっている。民族概念がもてはやされた十九世紀、二十世紀が、大量虐殺の世紀と呼ばれる所以(179〜181頁)。 *「民族」、一面ではそうかも知れないね。でも、そんなのどうでも良いこと。言葉なんて、道具なんだから、使い易いように変化してしまう。 以後、たわいのない「民族論」から、幼稚な「グローバリズム論」へ、話は移ってゆく。 ▼グローバリズム@−−福祉国家の挫折 「福祉国家」の挫折で、格差が生じ、拡がり、そして、所謂、「夜警国家」になると言う、通り一遍のお話。 ▼グローバリズムA−−一億総「在日」化 福祉システムが挫折して、自己責任の割合が増える。元々、自己責任だけでやってきた「在日」人と同じような状況になる。即ち、すべての日本人が、「在日韓国人」化するという言葉の遊びのお話。 ▼グローバリズムB−−グローバリズムが、国家を要請する 森巣: −−−「新しい歴史教科書をつくる会」という、完全なネオ・ナショナリズム運動がある。なんと、あれに賛同している企業がある。あれはどういうことなんでしょうか。 姜: 今のグローバリゼーションの対処法について、資本の中にも、色々葛藤があるんじゃないかと思うのですが。 森巣: −−−あんなことに、企業トップが加担してボーダーレス企業としてやっていけるのか,−−(198頁) *実情を知らない人達!「ボーダーレス企業としてやっていけるのか」、愚問。 森巣: そもそも国家を必要としたのは、グローバリゼーションの側ではないかと、私は以前から考えていました。 姜: 僕も、その意見に賛成ですね。−−−(198頁) *ああ、なんと言うこと。こんな、当然のことが、この人たちにわかっていなかったとは。情けない。 グローバリゼーションは、金融資本機構の道具。国家もその道具の一つ。 姜: ただ、グローバル化は、必ずしもアメリカ化ではないと思うのです。少なくともイコールではない。(199頁) *当たり前だろう。 世界の富の三分の一以上を持っている人たちは、誰? そいつらは、アメリカだけにいるのではない。文字通り、グローバルに存在する。 *グローバリズムとは、即ち、単なる名前を変えた植民地主義。金融資本による支配を全世界に拡大するシステム。国家はその道具。 ▼資本主義@−−貧困問題 姜: −−−矢張り僕は、ポリティカル・エコノミー(政治経済)の視点を忘れた見方は、何か重大な問題を見落としているような気がします。この十年間の知的トレンドが、やっぱり、文化研究にあまりにも偏りすぎていた。この数十年にわたって、世界全体として貧困層が益々増えている。(200頁) *そのとおり。科学技術の世界では、我々技術屋は、それなりに、必死になってやってきた。 経済学、倫理学、社会学、その他ひっくるめて、人文社会科学の連中は何をやってきたのか。何の実績も上がっていない上に、今になって、「見落としている」などと、実に、ほうけたことを言っている。ごくつぶし。 森巣: 重要なことは、富の再配分。−−安全をもとめるのなら、富の再配分をするシステム、公正、公平なグローバルシステムを考えることが最重要。 姜: 経済学、倫理学という学問は、富の再配分システムうを以下に構築するかと言う方向には進んでこなかった。西欧の良心的な学者達は、この問題にどうやって取り組んでいくべきかを、すでに考え始めているとは思うんです。 そもそも、貧困の問題は、経済学のイロハだったのに。(202頁) *で、あんたはどうするつもりなの? ▼資本主義A−−資本主義はどん詰まりに来ているか 姜: 資本主義システムが、今、どん詰まりに来ているか。もしかしたら、もう終わりなのか。われわれは、今、それを評価しなければならないところまで来ているんですね。(203頁) *ああ、なんと言う呑気さ。もう、完全に破綻している。富の再配分どころか、「ヒエラルキーのピラミッド構造が益々先鋭化している」のだろう。今、現在の世界の惨状をちゃんと認識しろよ。良い方向に全く進んでいないだろうが。 姜: 資本主義に潜む、これまでのイメージとは全く異質で、何か非常にダーティなものを考えなければならないでしょう。 *嗚呼、いまさら、何を。 元々、金儲けがすべてである資本主義は、明らかに、「非常にダーティなもの」ではなかったのか。ど阿呆の経済学者以外の人間で、誰か、クリーンなイメージを持っていたやつがいたのか。マックス・ウエーバーなんかくそ食らえだ。 姜: 九十年代以降に全面化する、金融派生商品Financial derivative productsを中心とした資本制を、アダムスミスの時代に比べて単純に逸脱といってよいのか、難しいものがありますね。新古典は経済学者なんかはどう解釈しているのか。でも、経済学者に、ニューエコノミーが富を生み出してゆく理由を聞いても、完全には説明できないのではないかと思うんです。 *毎日のニュースに必ず放映される株価。上がった下がったで世界の富が本当に瞬間的に変わるように感じてしまう。これは極めて異常なことなんだよ。あぶく銭を生み出すことと富を生み出すことは、全く違うのだ。 姜: 九月十一日のテロが起こって、人文社会科学が、もう一度、その存立基盤である近代の根源そのものを問い直す作業が必要。 その中で、今迄コロニアルな問題を背負ってきた僕のような人間は、あの事件をどう受け止めて、今後どうしたらよいか、考えさせられました。まだ、答はぜんぜん出ていないが。(206頁) *無理だよ。自分では、何にも出ないよ。机上の空論ばかりひねくっている奴等には。 まあ、精々、誰が、どんな屁理屈をひねくっているか、わかり易い解説書でも書くんだね。 ▼難民@−−100万人の難民を殺せるか?(206頁) *森巣は、「受け入れるしかない」といっているが、現実は、4人だろうが、100万人だろうが、明らかに見殺しにしているのだ。誰が、自分の損になることをするものか。ひょっとして、お前は、自分を犠牲にして受け入れているとでも言うのかね。 ▼難民A−−世界の何処にも、外部などない(210頁) 森巣: −−ハートとネグリの「帝国」に大変な衝撃を受けた。−−−「帝国」とは、内部矛盾を外部化することにより成立してきた。ところが現在では、世界の何処をどう探してみても、外部なんてものはないんだ、ということを指摘している。 姜: そう、外部はなくなった。それにもかかわらず、無理に外部を作ろうとして、レイシズムやナショナリズムがつくられるわけです。 *確かに、ハートとネグリの「帝国」は、読み物として面白かった。まあ、だけど、お話の世界。 こういった本は、結局、どれもこれも、「だからどうだというんだ!」と言うことになる。 終章 無族協和を目指して 森巣が、「族」と言う概念を殺した「無族協和」、人類レベルでの共存共栄、を提案する。 姜が、「すごい」という。ただ、単なる安手のコスモポリタンであってはならないとも言う。 森巣: 「無族協和」を実現する具体的な方法は、より良い未来のためにリイマジン(再想像)し続ける。つまり、想像し続けることが、多数者、少数者に関わらず、住みやすい社会の構築を実現する手立てではないか。(219頁) *妄想、幻想の世界。そんなことで実現出来るなら、今、現に殺戮・暴行が起こっちゃいないよ。誰もが、リ・イマジンし続けていて、今の現実がある。 姜: ヘッジファンドのクアンツをしているような、グローバル金融の中心にいる人が、反グローバリズムにアンガージュ(参加)出来るとしたら、この無族協和と言うものはもっと広がりを持ちうるはず。(220頁) 姜: 日本では、孫正義なんかがいるけれど、現在のグローバリズムにおいては、少数者がかなり中心に近づけるシステムになっているわけです。 姜: ウオール街に世界のマネーが流れ込み、その流れに乗りながら、同時に内側から反対してゆけるような、森巣さんの息子さんのような人達の登場。(221頁) *「ヘッジファンドのクアンツ」は、グローバル金融の中心にいる人ではない。 トレード用のソフトをつくる単なる技術者。被雇用者。だから、何でも許される。何に参加しようと、どんな運動をしようと無害、無影響。一般大衆と同じ。影響が出れば、解雇すればよい。 何らかの力になると考えるのは、無知がもたらす誤謬。 なお、この「クアンツ」問答は、ヘッジファンドにヘッドハンティングされた森巣博氏の息子さんが1999年シアトルでのWTO閣僚会議の反対運動に参加し、グローバル資本のあり方に反対した?という出来事が種になっている。 (???森巣博とか姜尚中のような人たちは、何故、サボるのだろうか?折角、身近にそんな貴重な情報源がありながら、すぐにヒアリングに行くというアクションを起こさないのか???) *こう言うと、世界の富の三分の一以上を持ち、世界を動かしている一握りの人たちが、金儲けだけを考えている化け物・悪魔のように思えるかもしれないが、決してそうではない。 ただ、彼らの規範が、一般大衆の善悪の判断を超えたと言うか、全く違う次元の所にあるのだとはいえる。 神が、異教徒の殲滅を命ずる。 神は、その破壊行為と殺戮行為を助けてくれる。 その神に盲従しなければ、自分達の神に殲滅される民族。 結局のところ、我々、東洋人には理解できないのだろう。ホロコーストの悲惨を経験しながら、復権した途端に、同じことをやっている、「神に選ばれし民族」。 自己の利益になることだったらなんでもやるぜ。壁で塗りこめるなんざ、なんてことはない。
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