土偶との遭遇

ユーラシア大陸の旧石器時代・後期の女性小像
Female Figurines of the Upper Paleolithic

カレン・ダイアン・ジャネットによる解説 ; 過去の諸説について
その1  最も初期の解釈

*はじめに

私(カレン・ダイアン・ジャネット)が、検討したところ、上記のグループの間に、著しい類似性があることが判った。

基本的には、報文の公表の時期によって、多くの著者やその考え方を三つのグループに分けることが出来る。

関連性の多くは、歴史的な、或いは、社会政治的な根拠の共通性に基づいて、三分割できるとはいうものの、それでもなお、かなりの重複が存在する。


第一のグループは、小像の発見者による、最も初期の素朴な、とても学術的とはいえないような説である。

このグループに区分される諸説は、1890年代から20世紀初期のもので、もっぱら、男性によって、又、男性のために書かれたものである。したがって、どうしても、人種上の固定概念や男女の役割を強調する傾向がある。

第二のグループは、19世紀の人種差別主義者や性差別主義者の説に対抗するもので、これは、その当時、段々と増加してきた女性研究者の見解・反応が含まれているのが特徴である。
旧石器時代の文化は、男性優位なものであるという解釈に対して、男女同権論者が激しい対抗意識を抱き、小像の創造や用途にたいして、女性が重要な役割をもつとする、新しい視点から見直しを行っている。
この様な理論は人気があったので、次々と書籍化され、疑似科学的な女神論が氾濫することになった。

第三のグループは、最も最近のものであり、これらは、今まで発表された重複する多くの説を取り入れて展開しているが、これまでの説の偽りの部分や疑似科学的なところを修正して、科学的に正確であろうとし、又、一般化しすぎると云われないように、極めて、範囲を限定して、論じている。



*第一のグループについて  :Section One

最も最初の見解や見方論は、19世紀の研究者や男性であった発掘者のものである。

これらの裸体の女性小像の表現が、かたぐるしく、封建的なビクトリア朝時代において、科学界というものを成長させる一つの力となったとは、いえるであろう。

性愛を示すものとして、或いは、繁殖力や生殖の表現として使われたとするのが初期の一つの解釈である。

最初に発見された幾つかの小像が、肉感的な身体の形状をもっていたので、研究者は、先ず最初に、クロマニヨン人文化に対するアフリカ的な影響を感じた。

Edouard Pietteは、小像の誇張された特徴をEburnienの期間の二つの人種の存在に起因するものと考えた。

彼が1902年に発表した報文では、「欧州の黒人人種」と後期旧石器時代の狩猟採取を悩ませていたであろう「異常な脂肪臀症」を論じている。
脂肪臀症(臀部に異常に脂肪がつく症状)は、あるアフリカの人種、特にその女性に見られる症状である。時あたかも、サラ・バートマン、Sartji Baartman、所謂、脂肪臀症のホッテントットのビーナスが、欧州につれてこられ、有名だったこともあり、すぐにこの人種説を思いついたのは無理からぬことであった。


こうして、あるアフリカ人種と女性小像のプロポーションとの比較から、Pietteは、氷河期に、クロマニヨン人と平行して、「脂肪臀症を発症するようなアフリカ人種」が欧州大陸に居たという結論に飛躍した。

Alexander Bertrandあての1894年の発掘調査について手紙の中で、「脂肪臀症の人種と、もう一つの人種が平行して居住していたことが確認された」と書き送っている。
Pietteは、彼の説が全く正しいものと信じていたが、彼の説は猛烈な反論にさらされた。

彼は、こうしたアフリカ原住民との身体形状上の類似性を指摘するとともに、「エジプト人形」にも似ている、或いは、「疑いもなくエジプト人」である人種も居たと云っている。

彼は、「小像に表現されている人物像には人種上の相違があり、その中の一部しかアフリカ人種に似ているものはない」という事実に悩みつつも、自説は曲げなかった。
彼は、小像の解釈に対する自己の位置を極めて明確に示している、即ち、小像は、実存する人間の写実的な描写である、なぜなら、その時代の人達は、完全に現実主義者であり、彫刻や彫像によって、自分自身の姿を表現したと考えられるからだと主張した。

このPietteの説は、絶大な人気を博した。というのも、Piette説は、その当時のヨーロッパ社会の風潮であった帝国主義と植民地政策にぴったりと合致したからである。

続いて、Lausselの浮き彫りに表された像、通称、Venus of Lausselは、旧石器時代の異なる人種の一つを、そのまま、素直に、しかも完璧に表現したものであると指摘している。

下の右の写真は、1914年にLouis Marcareによって作られた、Venus of Lasselの先史時代の像を、Aime Rutotに似せて作られたものである。下左の浮き彫りは、勿論、Venus of Lausselと通称されるもの。


下の写真は、1923年に建てられたパリのInstitute de Paleontologie Humaineの正面のファサードの天井のすぐ下の壁、フリーズの浮き彫りで、Breuilの監修の元に造られたものである。ここには、アフリカ人のSan man,ブッシュマン?がVenus of Lausselの浮き彫りを彫刻している様子が飾られている。


然し、Pietteにより唱えられた「アフリカ原住民の影響がある」とする説は、第一次世界大戦後は、直ぐに、勢いを失っていき、代わって、小像は実際の人物像であると考えはするものの、人種を云々するような面は除いた説に変わっていった。

Pietteの説が急速に勢いを失うとともに、こうした小像は、本当のところは、旧石器時代の男性に使われた性的な道具ではないかとする説が浮上した。

こうした旧石器時代のポルノだとする説は、二十世紀初頭に起こり、何回となく、繰り返し唱えられることになった。
この説は、氷河期からロダン、そして、現代のプレイボーイ誌のバーニーまで続く、性徴を強調する慣習に起因している。
こうした、「ビーナス像は、旧石器時代の男が食事をしているときの娯楽のためのエロテイックな道具として作られたものある」という解釈は、研究者があまりに小像の性的に誇張された部分にのみ、着目した結果であろう。

Karel Absolonは、多くの小像を検討した結果、「性愛と飢餓は、マンモスの狩猟者でありそして、これらの像の製作者であった人たちの精神生活に影響を与える、二つの動機である」と主張した。彼は、小像は、人々が性欲を覚えたときに使うためのものとして作られたもので、結果的に、「擬似的なポルノの氾濫」となったと解釈する。

Onianの小像の起源についての推論は、「極めて初期の、ソリュートレ文化に先立つ彫刻であり、陰部を彫刻された女性や動物の小像は、若い男性の強い食物や性への渇望に関係しており、それに触れたときの触感や目視によって、満足を与えるもの」である。これらの推論は、旧石器時代の女性が男性の従属物であり、単なる娯楽の道具であったとする偏見に基づいている。

旧石器時代には、女性は男性の従属物であったとする見方は、男性の研究者の旧石器時代の狩猟や生殖の儀式に対する見解の一面を示している。

Carl Reinachは、小像を多産・繁殖の儀式や典礼に使用される道具であるという解釈を取り入れた。彼は、小像が人間社会やそれを取り巻く自然の繁殖力を高めるために使われたとしたわけである。
彼は、又、小像が、より多くの女性が懐妊させるための儀式として、共感呪術に使用されたと示唆している。多くの小像が妊娠した女性像であることから、この説は一般に受け入れられ、今なお、一つの解釈となっている。

1908年のReinachの最初の推論の発表から、小像が繁殖と多猟を願う儀式の道具であるとする仮説は、動物と人間の多産・繁殖の儀式を中心とした氷河期の宗教的な儀式を想定するまでに至った。

小像の一般的な解釈は、旧石器時代の男性の性欲と繁殖に対する関心の表れ・表現であるということであった。

誇張された乳房は、妊婦の乳で一杯になった乳房を暗示し、更に、他の部分の誇張された表現は、肥満や母性による生理的影響の現れを示すものと考えられた。

小像に現れたものは、繁殖の必要性であり、男性が女性に対して、たくさんの子供をもたらしてくれという強迫観念ともいえるような強い願望である。

生殖、多産、繁殖、そして生命の象徴として描かれた小像は、同時に、旧石器時代の女性の消極性を示すものとも考えられている。
小像の「膨れ上がった下腹部と豊満な曲線」は、女性が基本的には受動的なものであることを表し、又、子供を生み育てる為に存在するもので、、、、習慣化された繁殖の儀式拝礼に係わる聖職者的なものとして見なされる。

この様な説に従えば、この様な女性たちの聖職性は、その生殖能力の有用性で終わりとなる。何故なら、アートや儀式は、旧石器時代の生活の重要な局面で、しかも、男性が参画している場合にのみ見られるからである。

こうした考え方は、初期の先史時代の歴史を専門とする研究者たちが、一般的な女性を、単なる子供の生産者とする見方をしていたためといえよう。

生殖や繁殖、そして、交感呪術的な儀式にかかわる解釈は、一度は、非常に人気があったが、最近では、あまりに単純で、割り切りすぎた考えだとして、疑いの目を向けられるようになった。

以上に述べてきたような考え方は、もっと、普遍的な説、即ち、小像は、後期新石器時代にひろまった、大地母神や最高女神の存在の証拠であるという、もっとスケールの大きい説に取り込まれてしまうことになった。



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