土偶との遭遇

古代ウクライナの謎  トライピリアン文化の驚異
その二

周辺の文化、Usatove Culture


下の地図で、右上から左下に引かれた点線の右側がSteppe、即ち、草原であり、
点線の左側は、草原と森林の混在する地域となる。

Cucuteni-Trypilian文化は、草原と森林の混在する地域に発展した。
これに対して、Usatove文化は、草原に生活した遊牧民社会の文化。


Trypilian文化は、かなり広い地域を占めたものの、黒海の周辺の草原地域までは、進出できなかった。
BC5000年代には、このテリトリーの西側には、牧畜文化が栄えていた。
BC5000年代からBC4000年代前半には、この草原に居住する人たちは、バルカン半島の北西に拡がった農耕文化の影響をある程度、受けたが、Trypilian文化地域には、逆に、部分的ではあるものの、彼らの放牧生活様式が浸透していった。
Dnister川とSouthern Buh川の間の地域では、こうした複合された生活様式の社会だったので、定住生活をとる事が少なく、この状態は、Usatove文化と呼ばれる初期青銅器文化時代にも継承されることとなった。
Usatove文化は、彩色土器や彩色土偶に見られるような南東欧州新石器文化と草原文化の混合体:大ハマグリの貝殻の粉砕片の入った土器や埋葬塚、馬の多用、砒素系の青銅器と銀の冶金技術、これらはコーカサス地方が起源である。彼らの生活の主体は牧畜であり、農耕の割合は低かった。Tripilian人が草原的生活様式を取り入れたときには、このUsatove文化が手本になったことであろう。



1.Usatove 2.Oleksandrivka 3.Mayaki 4.Popova Mohyla 5.Sadove 6.Pukary 7.Danki

Dot Symbol : a−住居と墓地の複合体、 b−Kurhan又はKurhanの集まり、 c−墓

黒海の北東域に位置するCircumponic regionで発展した遊牧民のUsatove文化は、北は、Trypillianトライピリアン文化、西は、Cenovoda文化等の周辺の農耕民族から農耕の知識をとりいれて定住生活を始めた人達の文化である。
Usatove文化は、東ヨーロッパにおける初期青銅器時代の先駆者とみなされる。
彼らの様式は、末期新石器時代の現在のブルガリヤの北東部に出来たCenovoda文化に似たところがある。



女性小像(大)、土器、BC3500年〜3000年、Usatove,Mayaki,地中埋設遺跡 12,オデッサ州、ウクライナ
15.7cmHx7.8cmWx7cmD

女性小像(小)、土器、BC3500年〜3000年、Usatove,Mayaki,地中埋設遺跡 12,オデッサ州、ウクライナ
4.1cmHx2.1cmWx2cmD

Usatove culture

ユーストフ文化は、BC3000年代末期の新石器時代にウクライナの南西地域、Dniester川の下流でDniester Estuaryの近傍の地域に起こった文化である。この名前は、1921年にMykhailo Boltenkoにより発掘されたオデッサ州の遺跡の所在地の名前からとられた。
ユーストフ文化は、一応、後期トライピリアン文化に含まれると考えられるものの、北方コカーサスのスッテプに住んだ部族や全く違った文化を持った地中海人種社会の影響を受けて、特異な文化を形成したと考えられている。
ユーストフ文化を作った人々は、牧畜、漁業とある程度の農業を営んでいた。
発掘によって、石壁を持った地上の住居や縄文や彩色された土器、女性の土器小像、青銅器の武器と装飾品が発見された。
[This article originally appeared in the Encyclopedia of Ukraine, vol. 5 (1993).]

     


左:擬人化された神像と思われる小像、BC3500-BC3000年、
共同墓地、グループ4、墓所5、Usatove、オデッサ州、ウクライナ
7cmH x 4.5cmW x 6.3cmD

右:

     

左:男性小像、BC3500-BC3000年、埋葬塚5、墓所2、Usatove、Mayaki、オデッサ州、ウクライナ
8.5cmH x 4cmW x 3.5cmD


Kurhan:
ウクライナ語で、Kurhan(ロシア語では、Kurgan)と呼ばれるものは、多くは墓所(屡、木造)を覆って造られた大きな塚の墓である。バイカル湖や黒海の周辺に多く造られた。





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