たびたび叙勲の誘いを受けながら、決して応じなかった人たちが居た。
新聞記者は、叙勲されるものはニュースになるが、拒否したものはニュースにはならないという。
こういう人たちは、中々、理由を明かそうとしないが、多くは、天皇に対する嫌悪の念、軽蔑の感情と自分が行ってきた
戦時中の行為に対する鬱々たる感情がその原因と成っている。
第七条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行う。 七 栄転を授与
すること。
中支戦線の塹壕の中で、今まで報告をしていた下士官が、ふと黙った。擲弾筒の破片で死んでいた。さらに、激戦の最
中に、「天皇陛下万歳」の声を聞いた。
そんなことがあって、「これはいかん。もう一兵たりとも死なせてはならぬ、八路も殺しては成らぬ」と心に誓った男。闘わない男、逃げるのが抜群に上手いと兵の間で評判になった小隊長。この男も、決して叙勲を受けなかった。
「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」「天皇は陸海軍を統師す」 (大日本帝国憲法)
「一旦緩急あれば義勇公に奉じ以って天壌無窮の皇運を扶翼すべし」 (教育勅語)
「死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」 (軍人勅諭)
理由の如何を問わず、戦闘を避けることは、「陸軍刑法、第二編 罪、第七章 逃亡ノ罪、敵前逃亡罪」が適用
され、軍事法廷で死刑となる。
この男が、人を殺さぬこと、即ち、戦闘をせぬことを決めて暫く経つと、何処に掃蕩に行っても、八路が居なくなった。稀
に居たとしても直ぐに消えてしまう。
北支の戦いだから、準軍属扱いの中国人がガイド役として付いていた。ここら辺から情報が流れていたのだろう。
敗戦後、引き上げを待っていたとき、この中国人が籠一杯のピータンを持ってきてくれた。
軍人としては、最悪最低だった男。
この戦闘拒絶、殺傷拒否のとんでもない小隊長についてくれていた下士官の人。軽機関銃の名手だったというこの人の話。
(この下士官だった人は、折角、無事に北支戦線から帰ってきたのに、その後、大阪の組の抗争で亡くなってしまった。) 何かと批判することは出来よう。然し、その批判者の何人が、今となりで、話していた人の血飛沫を半面に浴びた経験が
あるのだろうか。
「日本は神の国」「第9条破棄派」の何人が、戦争であれ、どんな状況であれ、人を殺傷した経験があるのだろうか。
開高健は、ベトナム戦争に従軍し、「ベトナム戦記」を書いた。
そして、「輝ける闇」や「夏の闇」を書き、ベ平連に失望し、反戦活動に失望し、人間に失望し、然し、失望できず、自己に失望し、通例のごとく、発狂か、自殺か、逃避か、、、、。
「花終わる闇」を未完にしたのまま、すべてに眼をつぶり、生命の魅力に引きずられて、「オーパ!」の世界に転換した。
小説家が、食物の随筆を書くようになったら終焉だそうだが、この人は、最後まで攻撃的に生きようとした。が、58歳で、早々と亡くなった。
もし、なくならなかったら、どうしているのだろうか。考えたくもない。
「輝ける闇」。
全編、演歌で言う”サビ”の連続、時に、キャッチコピー的なところが気になる、が、傑作。
ベトナム兵が、重機関銃の分解手入れを始める。
米兵が来て、色々とアドバイスする、「こちらを先に分解した方がやり易いよ」と。
突然、ベトナム兵がうつろな目になり、すべてを放り出して、立ち去ってしまう。
<シャッター反応>
夜になっても、機関銃は、分解されたまま放置されている。
現在、日本人全員、<シャッター反応>状態。グローバリズムに毒された金の亡者は?
ベトナム兵は、政府軍兵士、ベトコン兵士を問わず、死や傷病に同じ反応をする。
瀕死の傷でも、呻きもせず、泣きもせず、じっと天を仰いでいる。
そして、いつのまにか、死んでいる。
「---ジャングルの中で集結したとき、私は30名ほどの政府軍・負傷兵を見た。彼らは肩を抜かれ、腿に穴が開き、鼻を
削られ、顎を砕かれていた。然し、誰一人として呻くものもなく、悶えるものもなかった。血の池の中で彼らは立ったり、し ゃがんだりし、ただびっくりしたようにまじまじと目をみはって木や空を眺めていた。そしてひっそりと死んでいった。今立 っていたのがふとしゃがんだなと思うと、いつの間にか死んでいるのだった。---」 *ベトナム戦記 開高健
現在、日本人全員、シニタイ(死体)状態。
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