縄文雑感 その1 − 縄文文明の解明

縄文文化には、文字記録はない。
だから、幸運にして、誰でも勝手気ままに、その文化の謎を語ることが出来る。
素人だって、十分参画できる。
これはなんとも、実に楽しい、面白い。


先に紹介したが、神話学者の吉田敦彦氏の著書が面白い。

「縄文土偶の神話学 殺害と再生のアーケオロジー」昭和61年初版、「縄文の神話」1997年初版、1993年初版の「縄文宗
教の謎」等。彼の本は同じねたを使って書いているのが多いから、どれか一冊読めばよい。

「縄文の神話」、仮説の大胆な提示、根拠も要領よく提供されているから、もっともらしく聞える

まあ、そもそも神話学も正解がない世界だろうから、こうした類推、推理、謎解き作業は得意中の得意なんだろう。
この本では、破壊される土偶、顔面杷手付土器、釣手土器、怪奇な土偶、有孔鍔付土器等についての見解が示されて
いる。

必ず、壊され、ばらばらに、埋められる土偶。そして、分解することを前提に作られた土偶。
縄文の時代、初期は、ひたすら、大地、即ち、地母神にすがり、その授けてくれるものを拝受していた。
農耕・栽培が始まれば、草を刈り、木々を伐採し、大地を削り、穴を開け、果ては耕すことになる。これは、大地即ち、地
母神を殺傷し、その体から無理やりに食物を産出させ、むしりとることに他ならない。
ここにおいて、地母神の土偶を作り、これを破壊し、大地に埋めることにより、ひたすら、食物と化しての再生を願う習慣
ができた(アジア各地の神話に共通する)。即ち、この時代(縄文中期)に、すでに農耕・栽培が行われていた証拠と言
う。

考古学者、江坂輝彌氏は、前期末から中期初頭にかけて、比較的素材のもろい水成岩の打製石斧が極めて大量につ
られ始め、刃先に土掘りで摩滅した痕が見られるものが多いことから、これらは、農耕用の土堀道具であったことは確実
であるとする。
次いで、前期まで煮沸道具的な深鉢がほとんどだった土器が、前期末から多様化した。胴下半部につながるところがく
びれている所謂、キャリッパ型といわれる深鉢もその一つ。
江坂氏並びに藤森栄一氏は、このタイプの土器を蒸し器とし、里芋や山芋の栽培が始まったとする(何故、栽培の対象
が里芋や山芋であったとしたか?)。

又、このようなイモ類を石皿と磨り石ですり潰し、水さらしで澱粉を取り出す技術の発達により、食生活が安定したので、
中期縄文文化の盛隆があったとする。
この時期に、何らかの栽培・農耕が始まったとの説は、比較民俗学の岡正雄氏も示唆していたとのこと。

土器多様化の一つ、釣手土器、特に、藤内遺跡出土の顔面付の釣手土器から、この土器の中にともされる火は、即ち、

女神の体内で燃え上がる火を表すのだと言う。日本神話の「イザナミ」と「カグツチ」。
土器多様化の一つ、顔面把手付のキャリッパ形の深鉢、女神の妊娠した姿を現したものであり、この深鉢で蒸される食
物は、正に女神が生み出し授けてくれるものとしていたと言う。

中央の把手の裏面は、左の顔面把手の裏で、この女神の真の顔を示したものと言う。この解釈の真偽は兎も角として、こ
の文様、おそろしか。


土器の文様についての解釈を示した、「縄文のデザイン」。茅野市の印刷業者の人の本。

もっぱら藤内遺跡の出土品の文様を図示し、個々に解説している。
解釈云々は、所詮、自己満足の段階だが、丁寧な手書きで文様を描いた、その努力たるやたいしたものだと感心した
が、どっこい、井戸尻考古館員には極めて評判が悪かった。
文様の解釈内容は、同館研究者の成果の剽窃に過ぎないのだという。本当だとすれば、興ざめな話。
然し、たとえ、事実だとしても、井戸尻考古館関係者は、啓蒙的な著書をだしていないようなので、まあ、その研究成果
を広く大衆に知らしめる道具になるのではないか。


井戸尻考古館編の「甦る高原の縄文王国」には、井戸尻考古館長、小林公明氏の「縄文土器の図像学」なる講演記録
が収録されている。

初代館長、武藤雄六氏の後を継ぐ真面目な研究者の真面目な話。
三段論法を持ち出して、土器の文様が何を表しているかを証明しようと言うのだが、肝心の前提が真ではなく、「誰かが
そう思った」なので、何人がそう思おうと、結論も「そう思った」ことを証明しているのに過ぎない。何故、三段論法など持
ち出すのか。真偽の程は判らないものの、物語としては面白いのに、これじゃ台無し、惜しいね。
ただ、この人は、正直に考古学者といわれる人達の限界と欠点を認めている。
まあ、考古学者の重大な使命は、遺物やその出土の状態を克明に公表することにあるのだろう。データ提供が重点の
業務。

考古学に興味を持つ他部門の学者でも、観念的なアプローチをする学者、例えば、この方面では、有名な哲学者の
原猛氏の縄文文化の解釈も所詮、「私はこう考えた、こう感じた」以上のものではない。
自分の枠の中で、自分の頭の中でのみ作業したがるタイプの学問の研究者は、所詮、文字記録のない文化文明の解析・解明作業にはあわないのかもしれないね。
この人の論文で気になるのは、「私が昔から、考えていたことだが」とか「主張していたことだが」などの文句が散見される
こと。それに論文の内容にも、きらり光るところがない。
例えば、「縄文文明の発見、驚異の三内丸山遺跡」で、「5500年前から4000年前の間続く、三内丸山文明は中国の玉
石文明の強い影響下にあった」と主張するのは勝手だとしても、併行して稲作技術を輸入しなかった理由として、「食料
を十分に調達できる生産性の高い文明が存在したからだ」とする。なんとも無茶苦茶な話。活字になったのが恥ずかしくな
いのかな。
又、三内丸山遺跡から、見事な木製品が出土したことに対して、「従来、私が主張してきた木の文化」が証明されたとす
る。この人、既に、古くから何人かの考古学者が、「縄文は木の文化でもある」と言っていたことぐらい知らないのだろう
か。


縄文図像学 1,2 (縄文造形研究会)

わけの判らぬアマチュアの集まりらしいということで縄文造形研究会は、最初は、例によって、井戸尻考古館Gに相手に
されない様子だったが、ネリー・ナウマン女史の日本語訳論文を持ち込んだことも有って、徐々に認知されるようになっ
たらしい。


どうも、一般の考古学者は、外国語にアレルギーがあるのか、海外の文献をほとんど読まないようだ。最も、小生だって、
英独までで、それ以外は全く駄目、大きなことは言えないのだが。

考古学者や梅原氏に代表される人達の解釈、見方は、例えば、文様の解釈のようなものを取ってみても、万人がそ
れと認めるような単純なものをのぞき、ほとんどすべて、空想の域を脱していない。ましてや、文化・文明論に至っては、
妄想としか思えないものが権威者の論として跋扈している。


こうなると、専門家を自負する考古学研究者たちだってたいしたことはないからというわけじゃないけれど、奇説、珍解釈
も面白いもんだ。

先ず、佐伯何がしのとんでも本、「日本超古代文明のすべて」。
ある土面と釣手土器の文様が、神代文字で読み解けたとのこと。
先ず、青森県亀ヶ岡出土の土面の表面の模様は、アヒルクサ文字で「吾(あれ)をばまつれ、饗(あへ)をばまつれ」と書
いてあるとのたまう。
模様だけで構成された裏面についての言及がないのはご愛嬌。


又、山梨県・坂井遺跡出土と神奈川県・長者が原出土の釣手土器の釣手の文様は、今度は、トヨクニ文字で、夫々、
「宮をまつり贄(にえ)をまつらむ」、「神に栄え賜はらむ」と書いてあるとおっしゃる。
右の土器の釣手は、中期・飯田市・栗屋元遺跡出土の似たようなものだが、この文様だって、記号と思えば記号になる。
文様、即ち記号、即ち、文字なのかい?


「縄文土器に刻まれたDNA暗号」(桂樹 佑(カツラギユウ)著)。
UFOで有名な「たま出版」の本。
これは、何と、古代シュメールの記号をつかって縄文土器の文様を解釈したもの。
「たま出版」の面目躍如。まいった、まいった。世の中、天下泰平。


こちらは、「独自?のひらめき」を延々と語る「縄文土器 夢の立体絵文字」(中村秀憲著)。
結果的には、従来の解釈を再確認したようなものだが、剽窃とか重複とかを恐れず、自分の好きな切り口で見てみれば、一編の読み物になるわけだ。



縄文時代の食生活。

我々、都市部に住むものは、今では、土地が天然・自然に与えてくれる恵みと言うものを肌で感じることが出来ない。
然し、思い起こしてみれば、今でも、瀬戸内の島で、砂浜全体が浅利で出来ているところがあったり、北海道の人間は、
俺の若い頃は、川の水が見えないほど鮭が遡上してきたと言う話やその当時は、「いくら」で、手や顔を洗ったもんだとか
言う自慢話をする。
栗の木だって、昔は、森になっていて、谷が栗の実で埋まるのは珍しいことではなかったという(鉄道の枕木にするので
皆、切られてしまった)。
昭和40年ごろの広島でさえ、秋には農協の土間に松茸が山になっていて、傘の開いたものは売り物にならないからと、
唯でくれた。鳥取の松葉蟹だって、朝、漁港に行くと、学生だったら足のとれた蟹は唯でくれたもんだ。

最近は、澱粉を使った縄文のクッキーやパンが出土したりすることもあって、少なくとも、中期以降は、かなり豊かなもの
だったらしいと変わってきたようだ。


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