新潟県長岡市の馬高遺跡で、近藤 勘治郎・篤三郎親子が初めて完全な形の火焔土器を発掘したのが、わずか、70年前のこと。昭和11年12月31日。雪の長岡の大晦日、普通ならすべてが雪の下になっている時期である。
北陸でも、10年に一回くらいは正月にゴルフが出来るのだから、この年は例外的に積雪が無かったのだろう。
近藤篤三郎氏が、後に火炎となずける土器の破片を初めて土の中に見つけたとき、 その異常な破片を手に取ったとき
時、どのような気持ちだっただろうか。
それとも、史上初めてとなる大発見をしたとは、夢にも思わなかったのであろうか。
ジグソーパズルのように、丹念に破片を継ぎ合わせていく、辛気臭い復元作業。
徐々にあの異様な形が現れて来くる。
その時、近藤 勘治郎・篤三郎氏は、どのような感慨に襲われただろうか。
火焔土器は、誰でも発想できるようなツタンカーメンの遺品などとは格が違う。
縄文土器のコピーや縄文土器にヒントを得た造形を製作している人達がいるが、残念ながら実物に比べると、情けないほど力が感じられない。
岡本太郎は勿論のこと、あの大天才、ピカソの全作品をもってしてさえ、一個の火焔にみなぎる力には遠く及ばない。
ただ、火焔にしろ王冠にしろ、画一化、類型化してしまっている感じがする。
ある時、誰かが傑出した造形を完成してしまったので、その後は右に倣えになっていったのか。
加えて、この造形にこめた情念・思念がある時期、連綿として続いたのだろうね。
その中で、下のようなタイプ(津南町、小千谷市、十日町市)が水煙につながる発想なのか。
兎に角、世界に稀な「芸術品」だ。
そして、この実物がちょっと足を伸ばせば見ることが出来る。
特に、津南町歴史民族資料館の素直な展示は素晴らしい。展示とは本来こうあるべきもの。
余談だが、最近の変に凝った照明の展示は、全て、そのものの持つ本来の力を、美を殺してしまっている。
世界の名のある美術館、博物館にこんな不細工な展示は、一切、無い。田舎者丸出しの恥ずかしいものだということを、
認識して欲しい。
それに、折角見に行ったのに、貸し出しが多く空の棚が並んでいることが多い。田舎者は、本当に困ったもんだ。
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